忍者ブログ
看板会社で働いてます。その毎日。
[194]  [193]  [192]  [191]  [190]  [189]  [188]  [187]  [186]  [185]  [184
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 ジャズピアニストの山下洋輔(66)が、2日に死去した漫画家、赤塚不二夫さんとの思い出を語った。1970年代、タレントのタモリ(62)らをともに発掘した“爆笑時代”を振り返る。

 赤塚さん初体験は、ぼくが大学生のとき。妹が持っていた「おそ松くん」を読んで、食べていたご飯を吹きだすほど爆笑した。

 69年に初アルバム「ミナのセカンド・テーマ」を出したときジャケットに赤塚さんのイラストを描いてほしくて、漫画家の長谷邦夫さんを通して、お願いをしたんだ。快く“ベシ蛙”が『きくべし!!』と言っているイラストを送ってくれたんですよ。

 私たちが初めてタモリを連れて行ったのは新宿コマ劇場近くの『ジャックの豆の木』という伝説のバーです。筒井康隆さんや赤塚さんたち、論客ばかりがそろう場所でした。

 そこで4カ国語マージャンや韓国語の田中角栄、中国語のターザンなどがリクエストされてタモリのギャグが生まれていった。

ぼくなんかバーのママと“オフィス・ゴスミダ”っていう名刺まで作って、マネジャーのまねごとまでしたんだよ。“ゴスミダ”はタモリがデタラメな韓国語を言うときの最後にいつも付けていた言葉なんだ。

 ロウソクショーもあったな。赤塚さんとタモリが2人で上半身裸になってロウソクをたらしてもだえるんだよ。

 あるテレビ局の素人お笑い番組のオーディションに行ったら、プロデューサーは大ウケ、大笑い。でも、「際どくて、ほとんど放送できないよ」って言われてね。「じゃぁまた新宿で会おうな」って話してね。

 そんなタモリを赤塚さんは「この男を九州に帰さない!」と言って、自分のマンションに住まわせた。タモリは赤塚さんが豪邸を持っていると思いこんでいたんだけど、実際は赤塚さん、事務所に寝泊まりしていてね。分かってからも、タモリはマンションに住んで、たまに行くとナイトガウンなんか着て御主人気取り。デビュー前ですよ。

 あるテレビ番組で赤塚さんがフンドシ姿で花吹雪の中、日の丸の扇を振り回しているところにタモリが出た。それを見て感激した黒柳徹子さんが赤塚さんに電話をして(テレビ局に橋渡しをしたり、78年8月『徹子の部屋』にゲスト出演させるなどして)メジャーになったという記憶がある。赤塚さんはタモリにとって大恩人なんですよ。

 タモリは「オレは絶対お礼なんか言わないよ」って言うんだけど「お前はそういうヤツだ」って赤塚さんは許すのね。「あなたが私の才能にほれたんだから」ってタモリは言い張る。すごい友情ですね。

 ぼくも74年ごろ赤塚さんからベンツのスポーツカーを借りたことがあるんだ。(サックス奏者の)坂田明が運転して、(ドラマーの)森山威男と3人で高速を飛ばして演奏会場入り。到着したとき、関係者がビックリしていたよ。唐十郎さんに100万円する赤テントをポンと渡したり、本当に人を面白がらせたり、驚かせるのが好きな人だった。

 83年の屈斜路湖ジャズフェスティバルは、アイヌの友人を持つ赤塚さんが企画したもの。司会はタモリでスペシャルゲストに日野皓正、韓国の打楽器グループも呼んだんだよ。

 ぼくは「あいつは人をのせてやらせるのがうまい」って言ってもらっていた。

 飲みながらお寿司が出てきたときぼくは嫌いなので「今の一手はすごいですねぇ」ってお寿司を並べて囲碁解説をやってみたり。赤塚さんの前だと何か面白いことをしなきゃってね。

 漫画ともども既成のものをぶち壊す、破壊を続けていた人が赤塚さん。それを見て、おれたちだって何でもできるって勇気をもらいました。

 今どき72歳は早いけど、赤塚さんは私生活も作品もやりつくしたと思う。紫綬褒章のパーティーでニコニコして照れている姿が忘れられません。

ZAKZAK 2008/08/05

素晴らしい人生ですよねぇ。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
(10/29)
(12/08)
(05/08)
(03/28)
最古記事
(06/21)
(06/24)
(06/29)
(07/02)
(07/05)
忍者ブログ [PR]